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明圓寺のいわれ
 明圓寺は、一人一人の個性を尊重し、多様なライフスタイルの方々を応援し、歓迎いたします。

13世紀初頭の常陸の国は、修験道が盛んでした。
修験道とは、山の中で厳しい修行を重ねて悟りを求めながら、加持祈祷と呼ばれる呪いや祈りの儀式で、現世に起こる事も意のままに操ろうとする山伏たちの宗教です。

弁円のなみだ大きな勢力を誇ったこの地方の修験道の中心となったのは、播磨公弁円(はりまのきみべんねん)という山伏でした。弁円は、京都の聖護院の門弟として修行をしている頃から、非凡な霊力の持ち主として名声を集め、それは常陸国の金砂郷代主佐竹末賢の注目するところとなりました。末賢は、那珂郡東野村楢原谷に護摩堂を建立して弁円を招き、そこを領内の修験道を束ねる祈願所としました。弁円の名は、国の内外に広く響き渡り、多くの人の尊敬を集めました。

一方、後鳥羽上皇から弾圧を受けた法然上人に連座して、越後国に流罪となっていた親鸞聖人は、建歴元年(1211年)、およそ4年ぶりにその罪を許されました。しかし、法然上人はその直後にお亡くなりになり、親鸞聖人は京都に戻る事をやめて、関東は下妻小島の地を訪れました。笠間郷領主笠間時朝の副将として、当時幼かった領主を支えていた稲田九郎頼重は、親鸞聖人の専修念仏の教えに感服し、親鸞聖人を稲田の吹雪谷に稲田草庵を築いて、そこに住まうことになりました。以来20年間、親鸞聖人はこの地で布教活動に努めます。

阿弥陀仏の他力救済を信じて念仏を唱えることを説く親鸞聖人の教えは、瞬く間に多くの人々の心を捉え、信者は日増しに増えていきました。親鸞聖人の庶民的な考えが民衆の人気を獲得していくにつれて、かつて権勢を誇っていた修験道の播磨公弁円のもとに集まる人の数は次第に少なくなってきました。修験道の勢いが衰えていく様がはっきりしてくるにつれ、弁円は親鸞に対する怒りと恨みを募らせて行きました。そして遂には、親鸞聖人の殺害を決意したのでした。

弁円のなみだ親鸞聖人は稲田草庵から板敷山深くの山道を布教のため毎日の様に盛んに往来していましたので、弁円はこの山道で親鸞聖人を待ち伏せしようと考えました。
そして東野村からでは遠いので、新治郡真家村に草屋を建てて移り、そこから、親鸞聖人の通りそうな山道に出向いては待ち伏せを試みました。しかし、親鸞聖人の動きを探りながらどんなに待ち伏せ場所を工夫しても、不思議と行き違っていつまでたっても親鸞聖人と出会うことはできませんでした。業を煮やした弁円は、板敷山の山頂に護摩壇※1を築き、親鸞聖人の命を奪うために、自分の力の全てを尽くして呪術祈祷を三日三晩執り行いましたが、その効き目は全くありませんでした。

弁円のなみだいよいよ怒りに燃える弁円は、弓矢と刀を携えて、日が暮れてから親鸞聖人の住まう稲田草庵に押し入りました。今度こそは親鸞聖人を亡き者にしようと、凄まじい殺気に包まれた弁円に対し、親鸞聖人は穏やかで慈愛に満ちたご様子で現れました。その悠々とした態度、念仏の心を説くそのお言葉に触れて、弁円は突然弓矢と刀を投げ捨ててひざまづき、改悟※2の涙を流したと言われています。弁円はその場でたちどころに改心して親鸞聖人の弟子となりました。承久元年(1219年)、弁円42歳、親鸞聖人49歳のときのことでした。

弁円は明法坊という僧名を授けられ、以降、親鸞聖人直弟子24人(「開基二十四輩」)の一人として、残りの生涯を念仏信仰に捧げ、信者の手本となり、親鸞聖人にもよく仕えたということです。承久3年(1221年)には上宮寺を建立して、浄土真宗の布教に努めましたが、その後仁治元年(1240年)に上宮寺を明教坊に譲りました。

そして、明法坊自身は、親鸞聖人の命を狙うために作った思い出の真家村の草屋の跡に移り、ここに一寺を建立しました。それが当山「大澤山明圓寺」です。この名は、念仏信徒として開眼した後の僧名「明法坊」の「明」の字と、親鸞聖人を殺害せんともがいていた頃の名「弁円」の「円(圓)」の字を組み合わせたものです。明法坊の波乱の生涯から、人は変われる、そしてそれは一瞬の気づきと目覚めによって起きるのだという人生の真髄を知ることができます。そして、気づきが起きたときに、過去の自分との決別を一瞬にして成し遂げた明法坊の器の大きさに、行き方の手本を見る思いがいたします。私たちに、たくさんのことを教えてくれる明法坊に思いを馳せるよすがとして、そしてまた、過去の自分を乗り越えて新しい自分を獲得したいと望む多くの人たちと成長し合える場所として、当山は発展していきたいと願っています。

明圓寺は天明6年(1786年)の夏、山津波のために、本堂、庫裏残らず800メートル下の田まで押し流されました。今でも、当時の石碑などが地中から出土することがあります。その後、復旧した建物も安政元年(1854年)の正月24日、山火事に焼かれ、今の建物は慶応2年(1866年)の建立です。いろいろと困難に見舞われた歴史もありますが、近年、檀家諸兄のご尽力を賜り、集会が可能な家屋を本堂に隣接して建設することができました。周辺の豊かな自然や美しい景観を活かして、みなさまに親しまれるお寺を目指していきたいと思います。

※1 護摩壇
密教の代表的な修法の一つ。また、護摩法、護摩供ともいう。供物を火中に投じ、煙にして天上の神に捧げて
祈願する祭式で、紀元前から行われる。

※2 改悟
自分の犯した悪事や失敗を認めて、それをあらため直すこと

人形説き「弁円のなみだ」安藤けい一 http://bennen.web.fc2.com/list1.htm

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