ご見学は随時可能ですが、事前にご予約いただけますとご案内・ご相談が可能です。
毎週土曜日は「游心庵」見学日としています(要予約)。
お知らせ
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2024/03/13 @ 12:25今月(3月)の言葉
「山の端に隠れし人は見えもせで、
入りにし月はめぐり来にけり」
蓮生法師(宇都宮頼綱)
意味
向こうの山の端に入って隠れてしまった人はもう出て来ず会えません。
同じく山の端に入った月はまた、東から昇って来て会えたのに。
もう再び会うことの無いはずの亡き父にまた会いたい、と云う心を表現したものです。
私事ですが、今月MRIの検査を受けて来ました。
私も父親と同じ年齢になり、たまたま同じ病院で、同じ春彼岸の時期に、同じ様な足腰を引きずる痛みで、同じ検査をする事になり、ちょっと不安を感じておりました。
結果は、有難い事に大した事は無かったのですが、昨年11月頃から徐々に痛み始めて、今月レントゲンを撮って心配なところが有るからとMRI検査の運びになった時は、私も父親と同じかなと不安が脳裏を過ぎった事でした。
父親は、私が28歳の年に亡くなり思えば色々な事が次々とやって来て、この歳を迎え同じ事の繰り返しかと云う思いが走った時、再び会えるはずのない亡き父に会いたいと心の底から思った事でした。
亡き父は、お前は未だ早いから、少なくとも母さんを見送ってからお出でと追い返してくれた様な面持ちでした。
「生かさるる よろこび匂う春の梅」
中村久子
今有る命恵まれて、感謝のうちに生きたい、と改めてお念仏が口からこぼれ出た瞬間でした。
南無阿弥陀
合 掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2024/02/05 @ 19:50今月(2月)の言葉
「一遇を照らす、これすなわち国宝なり」
最 澄
小さな歯車が廻ってこの世の中が廻っている。
自分自身の持ち場、やらなければならない事、ここに対して一生懸命に取り組む事によって、
「それが大きな力に変わってゆくんだ。」と言う言葉である。
母親が見守る様な和かな温かい光の明るさで照らしてあげる事によって、周りにその温かさが伝わって行く。
そこが一遇を照らす場所で有り、それによって自分も満たされて行くのです。
それが幸せな事なのです。
本来、そこに幸福感が得られるもので有ります。
釈尊曰く
「人間は自分が一番わからない生き物である。」
自らの前の風景は、見方を変えれば全く違って見えるものです。
壁を作っているのは自分自身で有り、その事に気づく事が大切なので有ります。
物に満たされ、情報が氾濫している日本で幸せの形を追い求め様とする人間、目の前の風景を変えるためには自分の心と向き合う事が必要とされるのです。
今、自分が幸せな事に気づく事が大切で有り、当たり前の事が幸せに変わる瞬間、立てる事、座れる事、歩いたり寝たり出来る事が、有る事難し(有難い)と頂けるのです。
自分自身が何もわかっていない存在である事に気づき、自分の未熟さ弱さを知る事が求められているので有ります。
自分自身に気づかされる人生
それが阿弥陀様の光明に照らされた本当の幸せな人生ではないでしょうか。
人と比較した人生、嫉み、妬む心に行きる人生ほど悲しい人生は無いと思うのです。
今の寿命を生きたいものですね。
合 掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2024/01/06 @ 14:56今月(1月)の言葉
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
お正月を迎えるに当たって、私達はさまざまな願望がありますが、浄土真宗では神仏に祈願したりはしません。
親鸞聖人と云うよりは、お釈迦様が説かれた仏教そのものが「願望通りになる事が物事を解決すると云う教えでははいのです。」
釈迦(ブッダ)とは、覚者(目覚めた者)と言う意味であり、目覚めとは、「正しい事とか、当たり前になってしまっている事が、実は当たり前では無く正しくも無かった」と、間違った思い込みに気づかされる事であると思われます。
それには、煩悩や欲求を通さない事が大切であると思われますが、それと同時に阿弥陀様の真実のものの見方を知らされる事であると思われます。
それによって、優劣や善悪、損得と言ったものの見方の虚しさに気づき、それに執われない心が具わる事が大切であると思われます。
そこから、人間の苦悩から解脱した人生に出会える事になるのでは無いかと考えられます。
私達は、一年が始まるお正月に心新たにして神仏の願掛けを行なっておりますが、浄土真宗に於いては、正しい当たり前であると思っていたその行為そのままが、自分の間違った思い込みであった事への気づきにしたいものですね。
「如実知見」
法華経
この世界のあらゆるものは、常に変化し、執着するものは何一つ無いにも関わらず、その事に我々は気づいておりません。
自分の思い通りにしたいと云う欲求に振り回され、自己中心的な人生を歩んでいる自分に気づき、転換し、ありのままの現実を正しく認識する事が大切であると思われます。
その事を、阿弥陀様は願い続けていらっしゃる事と味合わせて頂いております。
合掌
明圓寺の納骨堂・樹木葬「游心庵」
お墓とは『故人を偲ぶよすがとす』と言われております。私は、墓前で手を合わせる時は、亡き人を振り返り偲ぶだけではなく、それをご縁として、今、生かされている自分自身を映し出す場、そして、今、置かれている自分の立ち位置を確認する場として、自分を見つめ直す大切な時間を頂くことでありたいと考えます。
時系列的には、過去、現在、未来へと繋がって時間が流れて行きますが、仏教的思想では、現在をどう生きるかによって過去も未来も変わってくる、と考えます。つまり、今の生き方次第で過去からの生き様もわかるし、未来も見えてくるのです。
現代を生きる私達は、時には苦しみ、時には悲しみ、未来の自分に戸惑う事に遭遇します。
そんな時、この場に立つことでご安置された阿弥陀さまと亡き人の暖かい慈悲の御手に抱かれて、ほっとしていただきたい、そして、心を游ばせて欲しい、そんな思いから游心庵と名付けました。是非一度足をお運びください。合掌
納骨堂
今、生かされている自分自身の命の意味を見つめ直す大切な場として、個人、ご夫婦、現代の様々なライフスタイルの方、継承者のいない方が安心して眠る場として、皆様のご要望にお応えし、それぞれのご縁を永代に渡りお引き受け致します。
明圓寺は浄土真宗のお寺ですが、宗教・宗派・国籍を問わず、門戸を拡げて、より多くの方々にご利用していただきたいと思っております。ペット用の区画もご用意させていただきました。
樹木葬
親鸞聖人のご遺言のに、「躯(むくろ)は鳥辺野のほとりに捨てよ」という言葉があり、自然に還るという(真宗的)思想から、明圓寺においてもこれに習い、自然葬(樹木葬)の区画も設けさせていただきました。樹木葬エリアは各種ハーブが植えられた日当 たりの良い場所にあります。
設計主旨
『心たゆたう場所』
青々と繁る竹林、天を仰ぐ杉の木立、かすかな形跡を残して続く小径。足下には無数の草花が生い茂る。林を抜ければ、緩やかな丘陵に柿園が広がり、その先には水田が水を湛える。石岡の郷の奥に位置する明圓寺は、多様な動植物を育むゆたかな里山に囲まれています。納骨堂建立に際して、住職は「亡くなった故人を振り返るだけではなく、それをきっかけに、いま生きている私たちの未来に思いを馳せる場所であってほしい」とおっしゃいました。様々な考え方、暮らし方をしている人々が、分け隔てられることなく心やすらぐ場所にしたい、とも。
私はこの場所を、日常の延長線上にありながらも、清廉な空気感を持ち、異世界との境界線であるような、意識がほんの少しだけ浮揚されるような場所にしたいと考えました。明圓寺本堂の背後に控える山林を歩いていると、木漏れ日が揺らぎ、心地よい風が吹き抜け、樹々の葉が風にそよぐ音が聞こえてきます。鳥や虫の鳴き声が聞こえ、遠くからは馬滝の水音すら聞こえてきます。これらはすべて石岡の郷が奏でる豊かな音の環境です。川の流れが一様に見えて常に形を変えていくように、いまここに生まれそして消えていく音と共にある場所にしたいと考えました。
その結果、明圓寺の山林の一角に、石岡の里山に傾けた耳のような、菩提樹を包み込む掌(たなごころ)のような場所ができました。広場の中に入ると、少しだけ外の世界と音の様子が変わります。ここではさまざまなイベントを行うことを想定しています。自然の光が差し込む明るいお堂の中では、読経の声が巡ります。大地が揺れ動いても動じることのない山々、大水で流されても再び何もなかったかのように芽吹く樹々草花。この場所が、そんな自然に寄り添い、人々と共に、長い時間かけて石岡の里山の一部となっていくことを心より望んでいます。
2015年 秋暑
建築家 松野勉
游心庵エリアマップ