ご見学は随時可能ですが、事前にご予約いただけますとご案内・ご相談が可能です。

毎週土曜日は「游心庵」見学日としています(要予約)。

お知らせ

大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2025/05/07 @ 19:55
今月(5月)の言葉

「はだかにて生まれてきたのに 何不足」

     小林一茶

京都の瀧安寺書院の裏庭に蹲があります。
その蹲石には、「吾、唯、足、知」と云う四文字が刻まれています。

蹲とは、「平伏してうずくまる」事で、つくばって謙虚に自分を見つめ、自分を考えると我が足るを知らずに生きている事に気づく事でありましょう。

足るを知らない事を不足と云います。

満ちるを知らない事を不満と云います。

平らならざる事を不平と云います。

不足、不満、不平の三つは、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒の煩悩そのものです。

一茶の「はだかにて生まれたのに 何不足」の一句と礼賛文の「人身受け難し、今已に受く」の一節が重なりあって、私達の心や姿を打つものが有ります。

「煩悩にまなこさへられて摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」

  高僧和讃 源信讃

三毒を持ち続けている我々は、阿弥陀様の「摂取不捨」の光明は、眼では直接認識出来ません。

自分中心というフィルター(煩悩)が邪魔をしているからであって、阿弥陀様のはたらきは、常に私の口から出て下さいますお念仏、光明が「ものうきことなく」、何時も絶えず照らし、はたらき下さっているのです。

私達は、苦難の多い人生では有りますが、
私の事を最も大切に思って下さる阿弥陀様と一緒の人生と頂き、どんな苦難も乗り越えて行こうと思うのです。

南無阿弥陀仏

     会  掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2025/04/07 @ 18:53
今月(4月)の言葉

「亡き人と語らんとて言葉なし
み名を称えて問いつ答えつ」

意味

生きている人と話す時は、雑談でも話しが通じている様に錯覚していますが、亡き人と話をする経験をすると、仏の深い世界を通さなければ本当に心を通わす事は出来ないと云う事です。

4月に入って、あちこちで永代経法要が勤まっております。

永代経法要は、門徒同行の懇志に基づいて、仏前にご先祖の法名を掛けて読経をする法要でありますが、四十八願の第一願(無三悪趣の願)に
「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」とある様に、私たち衆生は人間の姿形はしているものの、内心は餓鬼・畜生であり、私と云う生き物は、地獄の様な世界を生きている事を、如来さまに慚愧するための法要なのです。

又、ご先祖を供養することでは無く、亡くなったご先祖さまに対して、充分な孝養を尽くさなかった事を慚じる法要で有ります。

感謝と云う言葉が有りますが、謝りを感じた時、初めて慚愧の心もおこり、その時、お願い事のお念仏から心の底から溢れ出る報恩感謝のお念仏に変わるのでしょう。
その時、亡き人のご恩も、噛みしめる事が出来るのでしょう。

昨年末に母親が他界し、百ヵ日法要も勤め、一安心した思いで有りますが、これから母親が存在していた事を、しみじみと感じさせられる事と、覚悟している次第です。

    合  掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2025/03/01 @ 22:03
今月(3月)の言葉

「凡夫というは、無明煩悩われらがみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく…」
 

「一念多念文意 」
     親鸞聖人

「凡夫」とは、自己中心的に生きて苦悩する私達の事を指しています。

また、「無明」とは、人の心を惑わす多種多様な煩悩の根本のことで、物事の道理にかけている状態を指すのです。
我々は、無明煩悩に満ち溢れているのです。

ですから、我々は自分の思い通りにいかなかったり、自分より才能の優れた人に出会うと、怒り、腹立ち、うらみやねたみの心が生まれ、そこから脱出できずに苦悩したりするのです。

仏教では、「内観道」と言って苦悩の原因を環境や他人に向けず、自己を見つめる事、つまり自分の心の内に見るのです。

「暑さ寒さも彼岸まで」

お彼岸の時期は、一年でも、季節的にバランスのとれた頃と言えます。

又、お彼岸は春と秋の年二回ありますが
春分の日と秋分の日は、昼と夜の長さが同じとされます。
この事は、仏教の教えである中道の教えにかなうもので有ると云う説もあります。

お釈迦様は、「我は中道を行く」と言われ
苦行を放棄されております。

皆様、今月はお彼岸の月で有りますので
ご先祖様に感謝し、阿弥陀様への報恩感謝の思いで、お浄土をしのびたいものであります。

お彼岸とは、お浄土を示す言葉なのです。

    合  掌

明圓寺の納骨堂・樹木葬「游心庵」

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2019年-2025年

お墓とは『故人を偲ぶよすがとす』と言われております。私は、墓前で手を合わせる時は、亡き人を振り返り偲ぶだけではなく、それをご縁として、今、生かされている自分自身を映し出す場、そして、今、置かれている自分の立ち位置を確認する場として、自分を見つめ直す大切な時間を頂くことでありたいと考えます。

時系列的には、過去、現在、未来へと繋がって時間が流れて行きますが、仏教的思想では、現在をどう生きるかによって過去も未来も変わってくる、と考えます。つまり、今の生き方次第で過去からの生き様もわかるし、未来も見えてくるのです。

現代を生きる私達は、時には苦しみ、時には悲しみ、未来の自分に戸惑う事に遭遇します。

そんな時、この場に立つことでご安置された阿弥陀さまと亡き人の暖かい慈悲の御手に抱かれて、ほっとしていただきたい、そして、心を游ばせて欲しい、そんな思いから游心庵と名付けました。是非一度足をお運びください。合掌

明圓寺 住職 土肥千浩

納骨堂

今、生かされている自分自身の命の意味を見つめ直す大切な場として、個人、ご夫婦、現代の様々なライフスタイルの方、継承者のいない方が安心して眠る場として、皆様のご要望にお応えし、それぞれのご縁を永代に渡りお引き受け致します。
明圓寺は浄土真宗のお寺ですが、宗教・宗派・国籍を問わず、門戸を拡げて、より多くの方々にご利用していただきたいと思っております。ペット用の区画もご用意させていただきました。

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2019年撮影

樹木葬

親鸞聖人のご遺言のに、「躯(むくろ)は鳥辺野のほとりに捨てよ」という言葉があり、自然に還るという(真宗的)思想から、明圓寺においてもこれに習い、自然葬(樹木葬)の区画も設けさせていただきました。樹木葬エリアは各種ハーブが植えられた日当 たりの良い場所にあります。

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2019年撮影

設計主旨

『心たゆたう場所』

青々と繁る竹林、天を仰ぐ杉の木立、かすかな形跡を残して続く小径。足下には無数の草花が生い茂る。林を抜ければ、緩やかな丘陵に柿園が広がり、その先には水田が水を湛える。石岡の郷の奥に位置する明圓寺は、多様な動植物を育むゆたかな里山に囲まれています。納骨堂建立に際して、住職は「亡くなった故人を振り返るだけではなく、それをきっかけに、いま生きている私たちの未来に思いを馳せる場所であってほしい」とおっしゃいました。様々な考え方、暮らし方をしている人々が、分け隔てられることなく心やすらぐ場所にしたい、とも。

私はこの場所を、日常の延長線上にありながらも、清廉な空気感を持ち、異世界との境界線であるような、意識がほんの少しだけ浮揚されるような場所にしたいと考えました。明圓寺本堂の背後に控える山林を歩いていると、木漏れ日が揺らぎ、心地よい風が吹き抜け、樹々の葉が風にそよぐ音が聞こえてきます。鳥や虫の鳴き声が聞こえ、遠くからは馬滝の水音すら聞こえてきます。これらはすべて石岡の郷が奏でる豊かな音の環境です。川の流れが一様に見えて常に形を変えていくように、いまここに生まれそして消えていく音と共にある場所にしたいと考えました。

その結果、明圓寺の山林の一角に、石岡の里山に傾けた耳のような、菩提樹を包み込む掌(たなごころ)のような場所ができました。広場の中に入ると、少しだけ外の世界と音の様子が変わります。ここではさまざまなイベントを行うことを想定しています。自然の光が差し込む明るいお堂の中では、読経の声が巡ります。大地が揺れ動いても動じることのない山々、大水で流されても再び何もなかったかのように芽吹く樹々草花。この場所が、そんな自然に寄り添い、人々と共に、長い時間かけて石岡の里山の一部となっていくことを心より望んでいます。

2015年 秋暑
建築家 松野勉
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游心庵エリアマップ