ご見学は随時可能ですが、事前にご予約いただけますとご案内・ご相談が可能です。

毎週土曜日は「游心庵」見学日としています(要予約)。

お知らせ

大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2025/07/15 @ 8:38
今月(7月)の言葉

『喘われて喘われて 反省しよう
叱られて叱られて
反省しよう
叩かれて叩かれて
強くなろう』

    法句経

私達は、拙い事や誤った事をして先輩や他人に嘲笑されたり、叱責されたり、批判されたりします。

その時に、逃げたり嫌ったり言い訳したり、時には反省したりする事が有ります。
しかし、それでは改善や改良の進歩には成らないのです。

『観無量寿経』には、不善の聚は、「世尊に向かいて、5体を地に投げて懺悔す」と有り
『尊号真像銘文』には、
「即嘆仏、即懺悔」と有り、道徳での反省と云う意味と、仏教での懺悔と云う意味の相違が明らかになって来ます。

反省と云うのは、単に自分の向上、充実のために叱責、批判を受けた人や事柄に対して詫びる事ですが、懺悔や慚愧とは、世尊に対して又、仏に対して自分の誤りを、こんな私で有りましたと、きびしく深く悲しみわびる事なのです。

仏教的な懺悔とは、道徳的な反省を包括した大きな意義が有るのです。

    合  掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2025/06/13 @ 8:34
今月(6月)の言葉

「生のみが我らにあらず 死もまた我らなり」

  清沢満之
   臘扇記より

若い頃は、余り死を意識して生きている事は有りません。

青年期には、死を神秘として捉え、壮年期の人は、身内や知人の死によって死を驚きに捉え、老年の人は死を恐れとして考えたりします。

生死は、吾人の自由に成り得るものでも有りません。
生死は、全く不可思議なる他力の妙用によるものなのでしょう。

「山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
夕べもよろし」

   種田山頭火

近頃は、多くの身近な人の死を見つめる機会も増え、私もそう言う年齢に成ったのだと、実感するに至りました。

「自然」

「自」とは、おのずからと言う事で有り、
「然」とは、しからしむると言う事で有ります。

仏法では、人間のはからいを棄て、他力廻向の法爾の世界に生きる事と説きますが、人間は苦悩を経て一周して自分に戻る様な、周りに起きる事、見聞きする事を、ただ受け入れ、
「よろし(まぁ、ええやん)」と、楽しめる春夏秋冬で過ごしたい物ですね。

  南無阿弥陀

    
     合 掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2025/05/07 @ 19:55
今月(5月)の言葉

「はだかにて生まれてきたのに 何不足」

     小林一茶

京都の瀧安寺書院の裏庭に蹲があります。
その蹲石には、「吾、唯、足、知」と云う四文字が刻まれています。

蹲とは、「平伏してうずくまる」事で、つくばって謙虚に自分を見つめ、自分を考えると我が足るを知らずに生きている事に気づく事でありましょう。

足るを知らない事を不足と云います。

満ちるを知らない事を不満と云います。

平らならざる事を不平と云います。

不足、不満、不平の三つは、貪欲、瞋恚、愚痴の三毒の煩悩そのものです。

一茶の「はだかにて生まれたのに 何不足」の一句と礼賛文の「人身受け難し、今已に受く」の一節が重なりあって、私達の心や姿を打つものが有ります。

「煩悩にまなこさへられて摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」

  高僧和讃 源信讃

三毒を持ち続けている我々は、阿弥陀様の「摂取不捨」の光明は、眼では直接認識出来ません。

自分中心というフィルター(煩悩)が邪魔をしているからであって、阿弥陀様のはたらきは、常に私の口から出て下さいますお念仏、光明が「ものうきことなく」、何時も絶えず照らし、はたらき下さっているのです。

私達は、苦難の多い人生では有りますが、
私の事を最も大切に思って下さる阿弥陀様と一緒の人生と頂き、どんな苦難も乗り越えて行こうと思うのです。

南無阿弥陀仏

     会  掌

明圓寺の納骨堂・樹木葬「游心庵」

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2019年-2025年

お墓とは『故人を偲ぶよすがとす』と言われております。私は、墓前で手を合わせる時は、亡き人を振り返り偲ぶだけではなく、それをご縁として、今、生かされている自分自身を映し出す場、そして、今、置かれている自分の立ち位置を確認する場として、自分を見つめ直す大切な時間を頂くことでありたいと考えます。

時系列的には、過去、現在、未来へと繋がって時間が流れて行きますが、仏教的思想では、現在をどう生きるかによって過去も未来も変わってくる、と考えます。つまり、今の生き方次第で過去からの生き様もわかるし、未来も見えてくるのです。

現代を生きる私達は、時には苦しみ、時には悲しみ、未来の自分に戸惑う事に遭遇します。

そんな時、この場に立つことでご安置された阿弥陀さまと亡き人の暖かい慈悲の御手に抱かれて、ほっとしていただきたい、そして、心を游ばせて欲しい、そんな思いから游心庵と名付けました。是非一度足をお運びください。合掌

明圓寺 住職 土肥千浩

納骨堂

今、生かされている自分自身の命の意味を見つめ直す大切な場として、個人、ご夫婦、現代の様々なライフスタイルの方、継承者のいない方が安心して眠る場として、皆様のご要望にお応えし、それぞれのご縁を永代に渡りお引き受け致します。
明圓寺は浄土真宗のお寺ですが、宗教・宗派・国籍を問わず、門戸を拡げて、より多くの方々にご利用していただきたいと思っております。ペット用の区画もご用意させていただきました。

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2019年撮影

樹木葬

親鸞聖人のご遺言のに、「躯(むくろ)は鳥辺野のほとりに捨てよ」という言葉があり、自然に還るという(真宗的)思想から、明圓寺においてもこれに習い、自然葬(樹木葬)の区画も設けさせていただきました。樹木葬エリアは各種ハーブが植えられた日当 たりの良い場所にあります。

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2019年撮影

設計主旨

『心たゆたう場所』

青々と繁る竹林、天を仰ぐ杉の木立、かすかな形跡を残して続く小径。足下には無数の草花が生い茂る。林を抜ければ、緩やかな丘陵に柿園が広がり、その先には水田が水を湛える。石岡の郷の奥に位置する明圓寺は、多様な動植物を育むゆたかな里山に囲まれています。納骨堂建立に際して、住職は「亡くなった故人を振り返るだけではなく、それをきっかけに、いま生きている私たちの未来に思いを馳せる場所であってほしい」とおっしゃいました。様々な考え方、暮らし方をしている人々が、分け隔てられることなく心やすらぐ場所にしたい、とも。

私はこの場所を、日常の延長線上にありながらも、清廉な空気感を持ち、異世界との境界線であるような、意識がほんの少しだけ浮揚されるような場所にしたいと考えました。明圓寺本堂の背後に控える山林を歩いていると、木漏れ日が揺らぎ、心地よい風が吹き抜け、樹々の葉が風にそよぐ音が聞こえてきます。鳥や虫の鳴き声が聞こえ、遠くからは馬滝の水音すら聞こえてきます。これらはすべて石岡の郷が奏でる豊かな音の環境です。川の流れが一様に見えて常に形を変えていくように、いまここに生まれそして消えていく音と共にある場所にしたいと考えました。

その結果、明圓寺の山林の一角に、石岡の里山に傾けた耳のような、菩提樹を包み込む掌(たなごころ)のような場所ができました。広場の中に入ると、少しだけ外の世界と音の様子が変わります。ここではさまざまなイベントを行うことを想定しています。自然の光が差し込む明るいお堂の中では、読経の声が巡ります。大地が揺れ動いても動じることのない山々、大水で流されても再び何もなかったかのように芽吹く樹々草花。この場所が、そんな自然に寄り添い、人々と共に、長い時間かけて石岡の里山の一部となっていくことを心より望んでいます。

2015年 秋暑
建築家 松野勉
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游心庵エリアマップ