ご見学は随時可能ですが、事前にご予約いただけますとご案内・ご相談が可能です。

毎週土曜日は「游心庵」見学日としています(要予約)。

お知らせ

大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2024/04/23 @ 11:37
お寺の境内にも、春が来ております。

朝早くから、鶯が鳴いております。
外に出ると、馬滝から流れて出ずる水音が気持ち良いです。

週末にでも、足を運んでみませんか。
番犬のチョコも待っております。

合掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2024/04/01 @ 11:28
今月の言葉(4月)

The early bird gets(catches) the worm.

(早起きは三文の徳)

意味

朝早く起きると良い事がある。

「徳」は、「得」とも書き、また
「朝起きは三文の徳」と云う言い方も有ります。

また、「少し」と云う事なので早起きしても少ししか良い事が無いと云う反対の意味で使われていたと云う説も有ります。

先日、京都に行く用事が有り朝5時に起きて、ご本山参りをして来ました。
ご法話も久しぶりで、ご聴聞する事が出来まして ちょっと得をした気分になりました。
気分も良く、健康的で、仕事も効率的に進められました。

「仏法と萱屋の雨は、外に出て聴け」

萱ぶきの屋根は雨が降っても家に居りますと、萱や藁が雨音を柔らげ防音の役目を果たすため聞きにくいのです。
だから、雨音を聞くには家の外に出なくてはなりません。

仏法の音声も家で座っていては聞こえません。
お寺に足を運んでこそ聞法が出来るのです。

昔の人は、萱屋の雨と聞法を組み合わせて聞法に出かける事を怠らぬ様に、こうした格言で戒めたのでした。

蓮如上人は、御一代聞書の中で
「仏法には世間の暇をかきて聞くべし」とか、
「ひとつこと聞きて、いつもめずらしく始めたるように信の上にはあるべきなり」と示され、仏法は回を重ねる事も大切で有り、又
「ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めずらしくはじめたる様に有るべきなり」と聞く事の大切さを示されておられます。

コロナになって、ご聴聞の場も少なくなっておりますが、出来るだけお寺に足を運んで
ご聴聞して行きたいと願っております。
       
            合掌
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2024/03/13 @ 12:25
今月(3月)の言葉

「山の端に隠れし人は見えもせで、
入りにし月はめぐり来にけり」

     蓮生法師(宇都宮頼綱)

意味

向こうの山の端に入って隠れてしまった人はもう出て来ず会えません。
同じく山の端に入った月はまた、東から昇って来て会えたのに。

もう再び会うことの無いはずの亡き父にまた会いたい、と云う心を表現したものです。

私事ですが、今月MRIの検査を受けて来ました。
私も父親と同じ年齢になり、たまたま同じ病院で、同じ春彼岸の時期に、同じ様な足腰を引きずる痛みで、同じ検査をする事になり、ちょっと不安を感じておりました。

結果は、有難い事に大した事は無かったのですが、昨年11月頃から徐々に痛み始めて、今月レントゲンを撮って心配なところが有るからとMRI検査の運びになった時は、私も父親と同じかなと不安が脳裏を過ぎった事でした。

父親は、私が28歳の年に亡くなり思えば色々な事が次々とやって来て、この歳を迎え同じ事の繰り返しかと云う思いが走った時、再び会えるはずのない亡き父に会いたいと心の底から思った事でした。

亡き父は、お前は未だ早いから、少なくとも母さんを見送ってからお出でと追い返してくれた様な面持ちでした。

「生かさるる よろこび匂う春の梅」

         中村久子

今有る命恵まれて、感謝のうちに生きたい、と改めてお念仏が口からこぼれ出た瞬間でした。

        南無阿弥陀

        合  掌

明圓寺の納骨堂・樹木葬「游心庵」

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お墓とは『故人を偲ぶよすがとす』と言われております。私は、墓前で手を合わせる時は、亡き人を振り返り偲ぶだけではなく、それをご縁として、今、生かされている自分自身を映し出す場、そして、今、置かれている自分の立ち位置を確認する場として、自分を見つめ直す大切な時間を頂くことでありたいと考えます。

時系列的には、過去、現在、未来へと繋がって時間が流れて行きますが、仏教的思想では、現在をどう生きるかによって過去も未来も変わってくる、と考えます。つまり、今の生き方次第で過去からの生き様もわかるし、未来も見えてくるのです。

現代を生きる私達は、時には苦しみ、時には悲しみ、未来の自分に戸惑う事に遭遇します。

そんな時、この場に立つことでご安置された阿弥陀さまと亡き人の暖かい慈悲の御手に抱かれて、ほっとしていただきたい、そして、心を游ばせて欲しい、そんな思いから游心庵と名付けました。是非一度足をお運びください。合掌

明圓寺 住職 土肥千浩

納骨堂

今、生かされている自分自身の命の意味を見つめ直す大切な場として、個人、ご夫婦、現代の様々なライフスタイルの方、継承者のいない方が安心して眠る場として、皆様のご要望にお応えし、それぞれのご縁を永代に渡りお引き受け致します。
明圓寺は浄土真宗のお寺ですが、宗教・宗派・国籍を問わず、門戸を拡げて、より多くの方々にご利用していただきたいと思っております。ペット用の区画もご用意させていただきました。

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樹木葬

親鸞聖人のご遺言のに、「躯(むくろ)は鳥辺野のほとりに捨てよ」という言葉があり、自然に還るという(真宗的)思想から、明圓寺においてもこれに習い、自然葬(樹木葬)の区画も設けさせていただきました。樹木葬エリアは各種ハーブが植えられた日当 たりの良い場所にあります。

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設計主旨

『心たゆたう場所』

青々と繁る竹林、天を仰ぐ杉の木立、かすかな形跡を残して続く小径。足下には無数の草花が生い茂る。林を抜ければ、緩やかな丘陵に柿園が広がり、その先には水田が水を湛える。石岡の郷の奥に位置する明圓寺は、多様な動植物を育むゆたかな里山に囲まれています。納骨堂建立に際して、住職は「亡くなった故人を振り返るだけではなく、それをきっかけに、いま生きている私たちの未来に思いを馳せる場所であってほしい」とおっしゃいました。様々な考え方、暮らし方をしている人々が、分け隔てられることなく心やすらぐ場所にしたい、とも。

私はこの場所を、日常の延長線上にありながらも、清廉な空気感を持ち、異世界との境界線であるような、意識がほんの少しだけ浮揚されるような場所にしたいと考えました。明圓寺本堂の背後に控える山林を歩いていると、木漏れ日が揺らぎ、心地よい風が吹き抜け、樹々の葉が風にそよぐ音が聞こえてきます。鳥や虫の鳴き声が聞こえ、遠くからは馬滝の水音すら聞こえてきます。これらはすべて石岡の郷が奏でる豊かな音の環境です。川の流れが一様に見えて常に形を変えていくように、いまここに生まれそして消えていく音と共にある場所にしたいと考えました。

その結果、明圓寺の山林の一角に、石岡の里山に傾けた耳のような、菩提樹を包み込む掌(たなごころ)のような場所ができました。広場の中に入ると、少しだけ外の世界と音の様子が変わります。ここではさまざまなイベントを行うことを想定しています。自然の光が差し込む明るいお堂の中では、読経の声が巡ります。大地が揺れ動いても動じることのない山々、大水で流されても再び何もなかったかのように芽吹く樹々草花。この場所が、そんな自然に寄り添い、人々と共に、長い時間かけて石岡の里山の一部となっていくことを心より望んでいます。

2015年 秋暑
建築家 松野勉
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游心庵エリアマップ