ご見学は随時可能ですが、事前にご予約いただけますとご案内・ご相談が可能です。

毎週土曜日は「游心庵」見学日としています(要予約)。

お知らせ

大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2023/09/05 @ 17:48
今月(9月)の言葉

『さびしさに宿を立ちいでてながむれば 
いづこも同じ秋の夕暮れ』

良暹法師 『後捨遺集』秋

意味

寂しさに耐えかねて我が家を出て外を眺めたところ、
どこもかしこも同じように寂しいことだ。
この秋の夕暮れよ。

この歌は、詩歌集での詞書によると、
老いて数千人もいたとされる比叡山を降り
たった一人で大原に住み始めた頃、詠んだもので有ります。
意を決して世捨て人となり
大原に来たものの、話しを交わす友達はおろか誰も見かけない山里での暮らしに
僧侶とはいえども寂しさがつのるばかりの様子をうかがえる歌で有ります。
外に出て歩き回っても誰もいない寂寥とした山里に夕暮れ時が迫って来て、しみいるようなメランコリーを
心にジーンと沁み渡る歌で有ります。
そこは、人恋しさがつのって来るばかりで、とても秋らしい寂しさの中にほろ苦さが混じる枯れた味わいのある歌で有ります。

私事ですが、先日、京都に出かけて参りました。
残暑は未だ厳しいところであるのですが、風や雲、こうべを垂れる稲穂に、もの悲しい寂しさを感じさせられました。
私も自分の住む庵を出て見たのですが、景色はおろか、人並みさえ寂しさを憶える秋を肌に感じました。
そこには、どれだけ死力を尽くしても、既に取り返しのつかないまでに損なわれた人生観を覗き見る様な風景が映し出されておりました。

『貪愛、瞋憎の雲霧、常に真実信心の天に覆えり』

正信偈

『貪愛』とは、何かを貪り求める事で有り、『瞋憎』は、思い通りにならないものに怒りや憎しみを感じる事です。
この様な人間の苦悩は、雲や霧の様に太陽(阿弥陀さまの救いの働き)を覆ってしまうと、その苦悩の深さが語られています。
分厚い雲や深い霧が太陽の光を遮って、辺りが暗く感じる事が有りますが、太陽そのものが無くなってしまった訳では有りません。
どれほど人間の苦悩が深くとも、その働きに気づけなくとも、太陽は常に私達を照らしているものですから
それを、深く深く胸の奥で
憶えて置きたいものです。

       南無阿弥陀仏
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2023/08/04 @ 16:50
今月(8月)の言葉

「初心忘るべからず」

世阿弥元清

意味

初心は、元々仏教語の「初発心」から来た言葉で、初めて悟りを求める心を発すことを言います。
『華厳経』に「初発心の時、すなわち正覚を成す」と有り、初めて悟りを求める心を発す時、正しい悟りへの道は開かれている事、
初心は、たいへん大切で有る事を表したものです。
初心を忘れない様にしたいものですね。

私事ですが、ご本山にお参りする機会が有り、帰り際に仏具屋さんを、見て歩き先月、新しいお仏壇を迎える事が出来ました。
我家は、黒檀のお仏壇でしたので、以前から金仏壇にしたいと考えていたのですが、やっと決心が着きました。
大きな物では無く机の上に乗る位の物ですが、嬉しくて心躍り初心に返る思いに達しました。
最近、色々な事が有り、ついつい見返りを求めるお念仏になっていた様に思われ途方も無い諦念に至る感覚を憶えた次第です。

今月は、盂蘭盆(お盆)の月ですが、見返りを求める様になると餓鬼に陥る事になりますので危いところでした。

風も吹くなり
雲も光るなり
生きている幸福は
波間の鴎のごとく
縹渺とただよい

生きている幸福は
あなたも知っている
私も知っている
花の命はみじかくて
苦しきことのみ多かれど
風も吹くなり
雲も光るなり

     林  芙美子
友人(村岡 花子への手紙より)

阿弥陀様に手を合わせて見ると、心理的結果や判断に二律背反の状態を憶える事実の存在が有ります。
そんな時、「初心忘るべからず」と、叫びたい!

      南無阿弥陀仏
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)
大澤山 常陽院 明圓寺(茨城県石岡市)2023/07/02 @ 16:03
今月(7月)の言葉

「高原の陸地には、蓮華を生ぜず。
卑湿の淤泥に、いまし蓮華を生ず」

往生論註(維摩経・淤泥華)

これは、凡夫が煩悩の中にあって菩薩に導かれてよく
仏の正覚の華を生ずるのに喩えたものである。
水清ければ魚棲まず(人格などがあまりにも潔白過ぎると、かえって他人がなじむ事が難しくなる)と言う事の譬えと同じ様に、蓮華も清い水に在るのでは無く、泥の中に生まれながら清らかで美しい花を咲かせ、しかもその花が泥に染まらぬ事から煩悩から解脱して涅槃を得る譬喩として仏法のシンボルとされ、純粋な信心などの例えとなっております。
つまり、闇こそが自分を育て花咲かせる栄養素・土であると言っているので有ります。
我々は、不条理だらけの生を生きております。
あなたは、この闇の中にあって不条理の人生を肯定出来るかと問われているのです。
仏や菩薩の多くは蓮華を台座(蓮華台・蓮台)としていますが、これは前記の様に蓮華は泥水(五濁)を栄養として清らかな美しい花(正覚)を咲かせているのであって、仏と菩薩と同じ様に我々も不条理だらけの人生の中にあって清らかな人生を歩む事が大切であると言う教えであります。

「いずれの行も及びがたき身なれば、
地獄は一定住みかぞかし」

親鸞聖人は不条理だらけの生を生きる中で、地獄が住みかの様に定まっている私で在るといただき悩み苦しんだ後に、阿弥陀仏の第十八願に出逢うので有ります。
つまり、地獄で生きる凡夫を慈しみ悲しんでくれているのが阿弥陀仏の大慈悲で有る事に出逢い救われたので有りました。
我々も、「地獄は一定住みかとぞかし」と気づけた時に、初めて本当に阿弥陀様の呼びかけ、願いに南無阿弥陀仏と人生を任せ委ねる事が出来る身に成れるのだと思われます。

「人が規範とすべきものは常識ではなく、
時代を超越した永久不変の真理である」

これは、美輪明宏さんの言葉です。
美輪さんの人生も血涙が滲み出る様な一生であったのではないかと想像させられます。
ある時、テレビを見ていて
友人が自分の存在を家族にさえ否定され、首つり自殺をし、その家族を罵倒している姿に美輪さんの深い悲しみと怒りを感じた事を思い出し、この言葉を書き添えさせて頂きました。

観経に「念仏する者は當に知るべし、此の人は是れ人中の分陀利華なり」等とあり念仏行者をほめて云う喩えの様に、人は泥水(五濁)の中にあって白蓮華(プンダリーカ・分陀利華)の大輪を咲かせるべく在りたいと思うものであります。

南無阿弥陀仏

明圓寺の納骨堂・樹木葬「游心庵」

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お墓とは『故人を偲ぶよすがとす』と言われております。私は、墓前で手を合わせる時は、亡き人を振り返り偲ぶだけではなく、それをご縁として、今、生かされている自分自身を映し出す場、そして、今、置かれている自分の立ち位置を確認する場として、自分を見つめ直す大切な時間を頂くことでありたいと考えます。

時系列的には、過去、現在、未来へと繋がって時間が流れて行きますが、仏教的思想では、現在をどう生きるかによって過去も未来も変わってくる、と考えます。つまり、今の生き方次第で過去からの生き様もわかるし、未来も見えてくるのです。

現代を生きる私達は、時には苦しみ、時には悲しみ、未来の自分に戸惑う事に遭遇します。

そんな時、この場に立つことでご安置された阿弥陀さまと亡き人の暖かい慈悲の御手に抱かれて、ほっとしていただきたい、そして、心を游ばせて欲しい、そんな思いから游心庵と名付けました。是非一度足をお運びください。合掌

明圓寺 住職 土肥千浩

納骨堂

今、生かされている自分自身の命の意味を見つめ直す大切な場として、個人、ご夫婦、現代の様々なライフスタイルの方、継承者のいない方が安心して眠る場として、皆様のご要望にお応えし、それぞれのご縁を永代に渡りお引き受け致します。
明圓寺は浄土真宗のお寺ですが、宗教・宗派・国籍を問わず、門戸を拡げて、より多くの方々にご利用していただきたいと思っております。ペット用の区画もご用意させていただきました。

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樹木葬

親鸞聖人のご遺言のに、「躯(むくろ)は鳥辺野のほとりに捨てよ」という言葉があり、自然に還るという(真宗的)思想から、明圓寺においてもこれに習い、自然葬(樹木葬)の区画も設けさせていただきました。樹木葬エリアは各種ハーブが植えられた日当 たりの良い場所にあります。

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設計主旨

『心たゆたう場所』

青々と繁る竹林、天を仰ぐ杉の木立、かすかな形跡を残して続く小径。足下には無数の草花が生い茂る。林を抜ければ、緩やかな丘陵に柿園が広がり、その先には水田が水を湛える。石岡の郷の奥に位置する明圓寺は、多様な動植物を育むゆたかな里山に囲まれています。納骨堂建立に際して、住職は「亡くなった故人を振り返るだけではなく、それをきっかけに、いま生きている私たちの未来に思いを馳せる場所であってほしい」とおっしゃいました。様々な考え方、暮らし方をしている人々が、分け隔てられることなく心やすらぐ場所にしたい、とも。

私はこの場所を、日常の延長線上にありながらも、清廉な空気感を持ち、異世界との境界線であるような、意識がほんの少しだけ浮揚されるような場所にしたいと考えました。明圓寺本堂の背後に控える山林を歩いていると、木漏れ日が揺らぎ、心地よい風が吹き抜け、樹々の葉が風にそよぐ音が聞こえてきます。鳥や虫の鳴き声が聞こえ、遠くからは馬滝の水音すら聞こえてきます。これらはすべて石岡の郷が奏でる豊かな音の環境です。川の流れが一様に見えて常に形を変えていくように、いまここに生まれそして消えていく音と共にある場所にしたいと考えました。

その結果、明圓寺の山林の一角に、石岡の里山に傾けた耳のような、菩提樹を包み込む掌(たなごころ)のような場所ができました。広場の中に入ると、少しだけ外の世界と音の様子が変わります。ここではさまざまなイベントを行うことを想定しています。自然の光が差し込む明るいお堂の中では、読経の声が巡ります。大地が揺れ動いても動じることのない山々、大水で流されても再び何もなかったかのように芽吹く樹々草花。この場所が、そんな自然に寄り添い、人々と共に、長い時間かけて石岡の里山の一部となっていくことを心より望んでいます。

2015年 秋暑
建築家 松野勉
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游心庵エリアマップ